福井県敦賀市 「人道の港 敦賀ムゼウム」に立ち寄ってみた2!

*この記事の内容は、私が館内で記した説明文のメモから、また以下の著作を参照に書いています!

山田邦紀「ポーランド孤児 「桜咲く国」がつないだ765人の命」現代書館

 

ポーランド孤児の受け入れと関連した日本人

ポーランド孤児について>

・1917年にロシア革命が起きるまでは、シベリアに根をはって生活していたポーランド人が約5万人いたと見られる。そして、第一次大戦の触発、ロシア革命とそれに続く内戦で、シベリアにはさらに多くのポーランド人が流れ込んできた。

 

・その結果、ポーランド孤児はロシアのウラジオストクに15~20万人ほどいた。そこで日本政府がわずか17日間で孤児救済要請に承諾した(現在の日本政府の対応の遅さ、行動力のなさから聞くと驚きの行動力だと思います!)。

 

<孤児救済>

・第一次救済事業と第二次救済事業があった。第一次救済事業は計5回、第二次救済事業は計3回、合計8回の救済により、ウラジオストクにいる孤児計763人が敦賀に上陸した。

 

敦賀に上陸した孤児たちは就将小学校(現 敦賀西小学校)にひとまず落ち着き、気比の松原で遊んだ。気比の松原とは、赤松・黒松約1万7000本が茂る景勝地である。

実際に行ってみた気比の松原である。松と敦賀湾の対比が美しかった。

気比の松原から見る松原海岸から見る敦賀湾である。敦賀湾に面した、釣りを楽しめるのどかな景勝地であった。

 

・この気比の松原は、三保の松原静岡県)、虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つである。

ちなみに、静岡県の美保の松原も今年は訪れた。次は、3つ目の佐賀県「虹の松原」にも訪れてみたい!

 

<救済の際に関連した日本人 野口芳雄

・野口芳雄は1904年2月24日に福井県敦賀町の津内に生まれた。1920年の日本赤十字(日赤)(なぜここで日本赤十字が出てくるのか?)の第一回救済事業でポーランド孤児がウラジオストクから敦賀にやってきた当時は、16歳。敦賀商業(現敦賀高校)の学生で、最初に出迎えた人だった。そして、彼が外交官になろうと決心したのはこのときからである。そして、1936年にポーランド公使館勤務となり、敦賀以来16年ぶりに孤児たちと再会した。その際にポーランド公使館外交官として再赴任を求める要望書も極東青年会から提出された。

 

<孤児の一人 イエジ・ストシャウコフスキー氏>

・孤児の一人イエジ・ストシャウコフスキー氏は、1911年7月21日にキエフ近郊(ウクライナの首都)生まれ。第一次救済事業での日本赤十字(日赤)による第2回目で敦賀に上陸した一人である。イエジは、ロシア革命とそれに続く内戦で父親がロシア兵に殺され、母と5人の兄弟とも離ればなれになる。そしてシベリアをさまよっているところを救出される。その後、大阪に滞在し、神戸から祖国に帰った組の一人である。

 

<イエジ・ストシャウコフスキー氏のその後>

・1928年にワルシャワ在住の元孤児たち数十人が集まり、1930年2月「極東青年会」を正式結成した。目的は、会員同士の相互補助、祖国への貢献、そして日本との友好・交流などである。そして、会長は、発起人のイエジ・ストシャウコフスキー氏である。1983年に再び来日したイエジ氏は「日本に受けた恩義に全孤児を代表してお礼をいいにきた」と、大粒の涙を拭うこともなく、感謝の気持ちを伝えたのである。

 

<孤児たちを看護して際に、命を落とした日本人看護婦 松沢フミ>

・孤児たちは、列車で敦賀駅から東京に向かった。そして東京都の「福田会育児所」に収容された。その収容時の衛生面の点で、一人の看護婦が殉職したのである。その人が松沢フミである。

 

・その原因は、心配された腸チフスである。1921年4月下旬に22人の児童が感染した。しかし、医師や看護婦の必死の看護で全員が回復し、2週間ほどで終息した。だが、孤児たちを献身的に世話をしていた松沢フミ看護婦(23歳)が腸チフスに感染した。孤児たちが日本を立った3日後、7月11日に殉職したのである。

 

・彼女には、1921年ポーランドから赤十字賞、1929年には名誉賞が贈られることになった!

 

*「野口芳雄」そして「松沢フミ」。もちろんその二人だけではないのであろうが、本来の日本人はここまで「他人または他国の人にも誠意を持って尽くしていく行動力がある!」という気質を少しでも感じてほしいと思います。現代の、特に日本人・・・「ひたすら便利さを追求し続けている。これと引き換えに、何かとてつもない大切なものを失ってしまっている!」と私は日本人に感じているのです!

 

ユダヤ難民の日本通貨ビザ発給と関連した日本人 杉原千畝(すぎはらちうね)

杉原千畝とは>

バルト三国の一つ、リトアニアの首都カウナスの日本領事館副領事(代理領事)

 

・1940年7月18日、カウナスの日本領事館前には早朝から、建物の周りをびっしりと埋め尽くすほどのユダヤ人難民たちがいた。このユダヤ人たちを見殺しにできずにいたのがこの杉原千畝であった。杉原の家族も危険に巻き込み、違権で処分されるのも覚悟の上で彼らのビザ発給を決断したのである。そして、敦賀港にもユダヤ難民は上陸することができた。

 

・1日平均300人の発給ノルマで計2139通のビザを発給したというから驚きだ!ビザは家族単位で発給されるので一家族3人として、約3倍の6000人のユダヤ難民が救われたのである!これが、「命のビザ」といわれる所以である。

 

 

 

ユダヤ難民と敦賀市民の間との心温まるエピソード>

1.ある少年は、難民に果物かごを渡し、決して代金を受け取らなかった。

2.港に近い銭湯は、難民に浴場を無料で開放した。

3.駅前の時計屋の主人は、難民が空の財布を見せて空腹を訴えたので、彼らの時計や指輪を買い取り、台所にあった食べ物を渡している。

 

敦賀港にあった説明文

敦賀港に到着した船からは、溢れんばかりのユダヤ難民が上陸しました。難民たちは自由の地に上陸した喜びの一方で、ほとんどが十分なお金を持たず、お腹をすかせていました。そんな彼らに、ひとりの少年がリンゴやバナナなどの果物を無償で配っていたそうです。難民のひとりは数十年ぶりに敦賀を再訪問した時に「リンゴは本当に甘くておいしかった」と語っています。

 

敦賀に上陸した元孤児や元ユダヤ難民の声

・15歳で敦賀に上陸したヴェロニカ・ブコビンスカさん

 日本でもらったノートに当時を書いていて、扇子や教会でもらったカードは「私の最も大切な宝物」と話す!

 

・ヘンリク・サドフスキさん

 「我々、ポーランド人は日本に感謝すべきだ」

 

・2003年6月、敦賀市を訪れた駐日イスラエル大使館の参事官ギル・ハスケル

敦賀は天使が降りた町です。私たち国民は、何百年立とうと決して敦賀を忘れません」と語っている。

 

*今後も以下の著書を読んで、この記事を更新していく予定です。

 ・井上和彦親日を巡る旅:世界で見つけた「日本よ、ありがとう」小学館

 ・「ニッポン再発見」倶楽部「あの国はなぜ、日本が好きなのか?:歴史秘話・・・そして彼らは「親日国になった!」知的生きかた文庫

 ・河添恵子「世界はこれほど日本が好き:No1親日ポーランドが教えてくれた「美しい日本人」」 祥伝社黄金文庫

 

福井県敦賀市 「人道の港 敦賀ムゼウム」に立ち寄ってみた1!

*この記事の内容は、私が館内で記した説明文のメモから、また以下の著作を参照に書いています!

山田邦紀「ポーランド孤児 「桜咲く国」がつないだ765人の命」現代書館

 

立ち寄ってみたその結果、

  • ブログで本気で書いてみよう!という気概ができました!
  • 親日国としての、愛される本来の日本人気質を知ることができました!
  • ポーランドの壮絶な歴史と親日国になった過程も知ることができました!

   ●「日本のことをこれほど好き!」と答えてくれることに、同じ日本人としての誇  りを得ました!

 

〇人道の港とは?

 ・人道とは?人道を辞書で調べると、「人としての守るべき道」とある。それが敦賀の港である、ということは「人として、人間として・・・・本来尽くしたり協力したり、助けたりし、お互いに気持ちの良い良好な友好関係を築く」行動をするということである。もちろん見返りを求めずにひたすらその人を救ってあげる!ということでもある。それを、敦賀の人はポーランド人の人に尽くしたという歴史があるのである。

 

 ・ポーランドが「親日国」である・・・この事実を知っている人ははたして日本人でどれほどいるだろうか?私は、関連本でポーランド親日国であることを知っていたが、歴史的にどのような人道的な行いをしたのか?そのことは知らなかったので、今回の記事は調べたことを長文となるが、書き記しておきたい!

 

〇ムゼウムとは?日本とポーランドとの歴史的関係

 ・ムゼウムとは?どのような意味か。私は本館を訪れて展示を読み、メモを取り続けた結果、このように推察した。これは「ポーランド語だ!」と。そのことを帰りに館の女性員に尋ねたところ、やはりポーランド語であり、日本語の意味は「資料館」という意味だそうだ!そのまま「資料館」と書いてしまえば、なんてことはない館に思われてしまうかもしれないが、あえてポーランド語を交えていることに感心をしたものだ。

 

<日本に関係する3人のポーランド人>

・さて、距離的に日本から遠く離れたポーランドである。しかし近現代史においては、実は思った以上に日本と関わりが深い。

例1 コルベ神父(ポーランドカトリック司祭)

 アウシュビッツ強制収容所で自ら身代わりを申し出て殺されたコルベ神父は、6年間にわたり長崎で布教活動をした。逮捕されたのは1941年2月17日。当時は雑誌や新聞で啓蒙活動を従事する知識人や出版人はドイツにとって生かしておけない存在だった。そしてヒトラーが嫌悪したのが、第一にユダヤ人、第二に司祭だった。

 

例2 ゼノ修道士(ポーランド出身カトリックの修道士)

 コルベ神父とともに来日したゼノ修道士は自分も長崎で被爆(1945年8月9日の長崎に原爆投下による)しながらも、大勢の被爆者、戦争犠牲者のために生涯を捧げた。

 

例3 レフ・ワレサ氏(ポーランド大統領)

 ポーランド大統領になるレフ・ワレサ氏が「連帯」運動を始めた。連帯運動とは、社会主義国労働組合として初めて党(ポーランド共産党)から独立した労働運動を始めたことである。その時に最初の外国訪問国に選んだのが日本だった。

 

ポーランドに住んだり旅したりした多くの日本人が、「なぜこれほど日本人に親切なのか?」と思うようだ。ポーランド人は日本のことを「桜咲く国」と呼ぶ。日本をこのような美しい別称で呼ぶ国はポーランドのみのようである。

実際に訪れた館の外観

1階の案内図 まずシアター(映像)を見てイメージをつけたのち、「ポーランド孤児」「ユダヤ難民」というコーナーの説明コーナーを見た。その後階段を登って2階にも展示があった。なお、1階の展示はすべて撮影NGであった。そのおかげで写真を撮って満足するという甘えを断ち切りことができ、自分自身の想像力と緊張感を持って見ることができたので良かった。

 

ポーランドという国について

 ・ポーランドという国は、歴史的に見て悲劇的な歴史と過酷な経験をしてきた国である。特に「ポーランド分割」という世界史用語があるがご存じだろうか。これは、18世紀に、ポーランド・リトアニア共和国の領土が3度にわたり周囲の3つの大陸(プロイセン王国(現在のドイツ)、ロシア帝国オーストリアハプスブルク帝国)に奪われ、最終的に領土を失ってしまう、という意味である。

 

 ・本館での説明文では、20世紀に入ってからの3度のポーランド分割が書かれていた。一つ目は「自由からの蜂起」、二つ目は「日露戦争」。三つ目は「ロシア革命」である。微弱で自信のない表現で申し訳ないが、ドイツやロシアなどの大国に20世紀になっても強い影響を受け、迫害や虐殺をされたという壮絶な歴史があるということであろう。ドイツなら「ナチスドイツのヒトラー」によってである。最初の「ポーランド孤児」はロシアから、次の「ユダヤ難民」は当時のナチスによるものである。

 

 ・そして祖国ポーランドから脱出し、日本の敦賀港に逃げてきたということである。ここで、ヨーロッパ諸国から日本に来るためには2つのルートがある。1つ目は「ロシア経由」である。詳細は「ロシア(モスクワ)からシベリア鉄道を使ってウラジオストクまで(約9300km)、そしてウラジオストクから船で敦賀湾まで。2つ目は「スエズ運河経由」である。詳細は「ロンドン→パリ→マルセイユ→エジプト(スエズ運河)→ムンバイ(インド)→コロンボスリランカ)→シンガポール→香港→神戸か横浜」となる。

 

*今後も以下の著を読んで、この記事を更新していく予定です。

 ・井上和彦親日を巡る旅:世界で見つけた「日本よ、ありがとう」小学館

 ・「ニッポン再発見」倶楽部「あの国はなぜ、日本が好きなのか?:歴史秘話・・・   そして彼らは「親日国になった!」知的生きかた文庫

 ・河添恵子「世界はこれほど日本が好き:No1親日国、ポーランドが教えてくれた「美しい日本人」」 祥伝社黄金文庫

 

                        (2024年10月2日更新)